こんにちは、テリーです。
GWですね。
でも、「今年は『G=ガマン』『W=ウィーク』です!」と、この間どこかの局アナが言ってました。
中々お上手(笑)
外出自粛で時間を持て余してイライラする人。
ご家族・仲間・恋人と過ごせるはずだった楽しみがかき消され、ガッカリする人。
ずっと家の中に篭りきりで疎外感を感じる人。
家族と過ごせることが有難い反面、息が詰まりそうなストレスに苛まれる人。
それぞれの立場や環境によっても違うでしょうが、今、コロナの影響を受けていない人はいないですよね・・・。
ちなみに私はというと、クライアントさんへのセッション同様、生徒さん達ともグループビデオ通話で定期的にスピリチュアル・サークルを開催したり、プライベートでは、仲間たちとビデオ通話で女子会や飲み会などもエンジョイしています。
ネットのない時代には不可能だったことも、今はできることがたくさんあります。
コロナさえなければ!と恨んでみても始まらないですしね。
いかにこの時を楽しみながら乗り越えるか。
今の私にとっては、それがもっぱらの関心事です。
そんな中、手元にある一冊の本を開いたら、こんな内容が目に飛び込んできました。
短い文章なので、書き写してシェアしますね。
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「聖所」を持って生きる
『星の王子さま』の中で、王子が砂漠に水を求めに行くところがあります。あてどもなく歩いてゆくと、月の光を受けて砂漠は美しい。
王子が言います。
「砂漠が美しいのは、どこかに井戸を隠しているからだよ」
人間もそうです。表面に現れない「井戸」を心の奥深くに持っている時、人は美しくなります。
それは、他人に言えない秘密を持って生きるというようなことではありません。
一人ひとりが自分の存在の奥深いところに一つの「聖所」とも呼ぶべきものを持ち、年と共に大切に育ててゆくということなのです。
そこには他の誰にも、親にも、配偶者にも、親友にも、恋人にも踏みこませない自分の心の部分であると共に、どんなに愛し、信頼した人から裏切られた時にも、逃れて自分を取り戻し、自分を立て直すことのできる場所です。
騒がしい人混みの中でも孤独になれる場所であり、一人でいても淋しくない所以です。
体のどこの部分にあるかと尋ねられて指し示すことはできないけれども、一人で生まれ、一人で死んでいかなければならない人間が、その一生の間、自分らしく生きるためにどうしても必要な「場所」なのです。
そして、もう一つ。
他人の「聖所」に踏みこまない
「聖所」を持って生きるということは、お互いに水くさい間柄で生きるということを意味するものではありません。
人間はお互いにどんなに多くの言葉を費やして語り明かしたとしても、寝食を共にしたとしても、なお理解し合えず、理解し尽くせないものを持つのです。
それは一人で生まれ、一人で死んでいかなければならない人間が持つ宿命とも言えるでしょう。
それを悟らずに相手を知り尽くそうとする時、不幸と絶望が生まれ、「あの人のことなら何でもわかっている」と思いこむ時、大きな間違いをおかすこととなります。
人間理解ということは、矛盾するようですが、「人間は理解し尽くせない」という前提のもとにのみ可能である、この孤独な人々が互いにいたわり合い、できるだけ理解し合おうと努める時にのみ真に愛し合うこともできるのです。
私たち一人ひとりには不可交信性(incommunicability)という部分があって、また、それがあるがゆえに「知り尽くしていない」相手に対しての尊敬が生まれ、「知り尽くされていない」自分についての淋しさと同時に誇りが残るのです。
美しい人というのは、年と共にこの「聖所」を自分の中で育ててゆく人であり、他人の「聖所」に土足で踏みこまない繊細な心の持ち主です。
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さぁ、どうでしょうか。
私たちがいる今のこの状況・・・ 置かれているそれぞれの立場・環境・状態・心境に違いはあっても、何か響くものを感じていただけたら幸いです。
上記いずれも渡辺和子さんの著書「どんな時でも人は笑顔になれる」から抜粋させていただきました。
ご存知の方も多いかと思いますが、渡辺和子さんはカトリックのシスター(修道女)で、ノートルダム清心学園の理事長でもあった方です。
2016年冬に89歳でお亡くなりになりましたが、多くの著書があり、私も何冊か読ませていただきました。
特に宗教色が強い内容でもないので、ノン・クリスチャンの私にも違和感なく、魂に響くものを感じながら読ませていただけたのが有難かったです。
ご興味のある方は、Amazon等で検索してみてくださいませ。